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ちょっとオーディオ

私は若い頃からオーディオが好きでした。

16歳の夏からジャズが好きになって、ジャズ喫茶によく行った。

やがて好きな演奏を存分に聞きたいとレコードを買うようになる。

次は少しでも良い音でとオーディオをということになる。

それまでは卓上型電蓄であった。

社会人になっていよいよ本格的になり、アンプは山水、レコードプレイヤーはマイクロ、スピーカーも初めは山水の、そう格子柄の奴だった。

やがて、JBLを買ったり、迫力をと、JBLは高価で手が届かなかったのでテクニクスの確か?SB-7000という番号のついたデカイ奴を。

ウーファーは35cmだったと思う。

結婚、転勤、脱サラという働き盛りでブランクもあった。

オーディオ再開の時はレコードじゃなくCD全盛だった。

ブック・オフやハード・オフさんには随分と世話になってCDや機器を揃えたものだ。

やがて、スピーカーをあれこれと鳴らし換えたりと、遍歴もした。

折りに触れ、ジャズやスピーカー、アンプの話しを書いていく事にしよう。

ストーカーを止めると自分のアイデンティティが?

天声人語にこんな言葉がありました。

「ストーカーをやめると自分のアイデンティティがなくなる。」

この馬鹿にアイデンティティが何なのか分かっているのか?いや、分かってなどいない。

分かっていれば、ストーカー行為に奔走したりはしないだろう。

己のアイデンティティを本気で問うならば、視野が広がり他者にも心配りが生まれるものだと思うからだ。

自分だけのアイデンティティ、自分さえよければいいという発想が根底にあるのでは。

自分だけしか視野にない?

そんな狭い見識で真実が見えるか。

 

最近、何事につけ人権がないがしろにされていると感じてならない。

私自身の反省を含めてなのだが、人権という事を本気で考えたことのある人はとても少ないのが日本ではと思う。

他国の多くは様々な人種で構成されている。

人種が様々ということは生活信条の根幹をなすことが少なくない宗教も様々ということである。

アメリカは最たるものだが、テロなどのニュースで知るヨーロッパ、自由と博愛を歌っているフランスではイスラム信仰の人が随分といることをニュースで言っていた。

そうした国では考え方や思想の持ち方の違う人たちが周囲に沢山いるので、どう理解してどう受け止め、どう付き合っていくかという事が日常にある。

そうであれば、否が応でも考えざるを得ない。

相手の事を考えていけば、自ずと自分をも見つめ、見つけざるを得ない。

人は鏡であると思うから。

その人の姿を理解しようと思えば「それでは自分はどうだろう?」という問いにぶつかる。

それが無い人間はよほど傲慢だと思う。

自分は絶対だから省みる必要はないとでもいうように。

私は思う、宗教とは信じることであると同時にどう生きるかという思想でもあると。

考え方が生活に反映されるのは当然だから。

 

こういう言葉もあった。

「大切に思う気持ちは変わっていない・・・もう一度プロポーズを。」

{相手への支配欲ゆえに「どん底に落としたい・・・たたきのめしたいですよ。」}

意味が分からない。

付き合ってもいない人にプロポーズとは?

相手への支配欲?

物じゃないのだから一方的な感情でどうこうする、またできるものではない。

それすら分からないといのは、人としてどう育てられ何を学んできたのだろうか。

社会と個人とは一体化している部分と己として別な部分があると思っています。

そのバランスをどうとるかという事は幼少の頃から、時には躾であったり、叱咤であったり、褒められたりであったりしながら身についていく。

そうした時期を失した訳ではないだろうが。

親を知らずに育つ人もいるが、ハンディを乗り越えて素敵な社会人に、家庭人になっている人は沢山います。

経済的にも恵まれて不自由のない環境で育ちながらも社会との適合、適応ができない人も少なくないのだろうと思う昨今だ。

何が悪いのか、躾は親の責任だと思っている。

教育は半分は国の責任だと思っている。

  • 残りの自分の責任は年齢とともに領域を広げてい大人となっては100%自分の責任だという認識をもって育ってきたのは昭和の世代までなのかな

 

身勝手な犯行・・

『身勝手な人間が増えているのか』

身勝手でない犯行ってあるのかな?とも思うのですが。

 通り魔的殺人事件といわれるものがあった。

これからもあるだろう。

そういう事件が思いださせるのは「人を殺してみたかった。」という言葉です。

動機があまりのも短絡的といいますか、「えっ、そんな理由で人を!」ということが多すぎます。

もっとも、どんな理由をもってしても人を殺しても良いという理由にはなりません。

それなのに、それなのにという思いが膨らみます。

身勝手の最たるものが殺人です。

人は他人のものを奪ってでも欲しいものを手に入れることがあります。

盗みです。

欲しいのに手に入れる力、経済力がないから奪うということだろうか。

或いは、自分には与えてくれないから奪う。

どちらにしても、得るための努力をしない、したくないと、それでも欲しいという我欲なのか。

そこには奪われた人の気持ちを思う、考えるということがない。

他人の立場にたって物事を考える、気持を考えるということが欠けている。

自分がされた立場だったらどうだろう、どういう気持ちになるだろう。

そういう人に限って案外に、もしも自分が被害者だったら

「ふざけるな!冗談じゃない!絶対に許さない!」

という思いは人一倍、いや誰よりも強いだろう。

どうして?何故?などという思いなど皆無で怒り心頭するだろう。

しかし、物体なら返すとか、金銭で償うということもできるが命は全く次元の違うもの。

 

いつからだろうか、テレビドラマにはサスペンスだの刑事ドラマだのと、殺人事件がとても多い。

それはそれでもよいから、もっと人間像を描いて欲しい。

犯人の気持ちとそれ以上に被害者の気持ちを描いて欲しい。

殺人事件に限らずに罪の深さを描いて欲しい。

 

死にたいけれど死ねない。

自分で自分の命をなくすという行為は怖くて出来ないから、人を殺すという行為の罪に対する罰として死刑にして欲しい、そんな身勝手な言葉もテレビにあった。

それに対しては自分の事なのだから人を巻き込むなと言いたくなる。

そんな動機で刺したり切ったりされたら堪りません。

 

そうした行為をする人にはどんな言葉も通じないのではと思う事があります。

常軌を失しているからだと思うからです。

1方向に意識が集中して他は見えなくなっているから。

裁判に於いて心神喪失責任能力の有無などが問われることがあります。

責任能力がないから無罪という判決も、私には理解しがたい事の一つです。

精神状態がどうであれ、犯した罪は罪ですから有罪ありきでよいと思うからです。

刑の大小に酌量の余地を考慮することはあっても絶対に無罪はあってはならないと思うのです。

 

殺人事件被害者の件数をみてみました。

少ないと思うかどうか。

2013年以降はもっと増えているように思えてならない。

  • だが、自殺者の数の方が圧倒的に多いのです。

年度

合計

1955年 ゴジラアンギラスが出現(『ゴジラの逆襲』)

2119

1964年 東京オリンピック開催

1480

1986~1991年 バブル崩壊とされる期間(6年間の平均)

 843

2012年 最新統計

  383

仮想、空想に慣れる

『裸の写真を彼氏に、(SNSの問題点)』

あくまでも素人の意見ですが。

 

彼氏に送信した裸の写真、別れたら拡張されたとテレビが言っていた。

 

最近の若い人たちは面と向かっての人間関係が苦手という人が増えているのでしょうか?

早くからテレビゲームやタブレットスマホを手にすれば今度はSNSで顔の見えない交遊関係。

幼稚園や小学校は疑似社会、小社会であって人間関係を築いていくための、いわばトレーニングの場ではと思っていた私は古いのだろう。

少なくとも小学校の中学年以上では人間関係に本音と建て前が生まれているようだ。

考えるより覚える教育、テストのための詰め込み教育だと言われて久しい。

考える事の中で、相手の立場になってという大事な要素がある。

こう言ったらどうお受け止めるだろうか。

自分はこう思うけど、相手はどう思っているのか。

考え方や感じ方は10人いれば10通り。

想像力を働かせて考えることが不足しているように感じてならない。

思えば65歳になる私の小学生の時は遊び方を考え工夫し、遊び仲間の中にルールを作ったりしたものだ。

今はどうなのだろうと想像すると、お互いの意見や気持のやりとりが少なくなったのでは思えてならない。

子供の玩具といえば、全てが完成されていて、どう扱うか、どう遊ぶかが示されている。

考えないで面白さを味わえる。

言い方を変えれば、メーカーの意図した形に当てはめられていると、或いは受動的だともいえる。

自分ならという視点がないがしろにされている。

結果、自己認識や自立心や自律心が育たない。

もてあましている迷いが表に出れば、その隙をつかれていじめられたりする。

自分を晒せない、晒せばいじめの種が生まれかねない。

そう、いじめに警戒するのです。

そうやって早くから警戒心をもっているのにどうしてSNSでの警戒心は薄いのか。

そう思っていたが、真理は逆かもしれないと思うようになった。

学校ではじかに触れているから“いじめ”という被害にあう可能性が大きい。

だから架空世界に生きようと、これは大袈裟だが架空世界に逃げようとする。

それに慣れると架空な世界が現実味を持ってくる。

どう想像するかで現実の世界では実現不可能な、例えば恋愛や異性交遊など。

想像は妄想をう生み、妄想に支配される。

だから、SNSの通信だけの、生ではない仮想の交流が現実味をもってしまう。

あくまでもそこにある相手の姿が仮想であって、表現される人柄や語りかけてくる言葉の真意はない。

だが、自己の都合のよい想像も助けとなって仮の真実が生まれる。

その段階で納まっていれば問題は起きないのだが。

だが、仮想の恋愛のつけ込んで信頼感を得るというのは生の触れ合いよりも単に簡単とは言わないが、危険性を含んでいるのではないだろうか。

悪い意思をもってどうやって信頼の罠に誘いこもうかと躍起になっている輩がが沢山いるのが現実なのだ。

連中は日々工夫に励んでいる。

女の子の心理を研究してもいる。

いわばプロだとも思っている。

人は信頼関係の中に依存心を生むことがある。

個人的な交信の段階に入っての相手の情報、会ってもいない、顔も知らない、どこに住んでいるのかも分からない、本当は男なのか女なのかも分からない、正体不明な相手なのに、そこにある情報を信じてしまう。

更には恋愛感情まで育んでしまう。

彼氏に嫌われたくないからと、要求に応えて裸の写真を送信し、脅迫の材料にされて不純な異性交際を強要される事は、強制的な性交渉相手にされたりという被害はどれほどあるのだろうか。

裸の写真を人の目に、たとえ信じている人でも、恋人と思っている相手にでも堪らなく恥ずかしいものであろう。

それを要求してくるということ自体が“あなた”を軽んじていることなのだ。

人を軽んじる人間は、思うようにならないと破壊行為へと進んでいく。

ストーカー殺人はその最たではないだろうか。

 

うん、まあ申し訳ないとは思うけど・・って何だ!

「相手を傷つけた事をどう思う?」

「まあ、申し訳ないとは思うけど。」

「死にたいか?生きていたいかと訊いたら生きていたいと言ったから119番した。」

お前、それでも人間かと言いたくなる。

他人をまるで所有物であるかのような発言をしばしば耳にする時代になった。

人権というものを考えた事のない自己中心的な生き方、育ち方をしてきたのだろうか。

それはどういうものなのか?

ゲームの世界じゃあるまいし!そう、ゲームに登場するものにたいしては気に入らなければリセットしてしまえる。

今日生き現場では個性的人間は扱い辛いからだろう、変人のように評される。

そうやって皆が同じである方が扱い易いから、同調を要請してきたのでは。

個性的なことは他と変わっていることで、それが悪い評価を受けるものだという暗黙の了解がはびこっている。

だが、人は皆個性的なものなのだ。

それを隠して生きるストレスが、隠さない、隠せない個性派をじめの対象にしたりする。

大なり小なり皆ちがうのだが、小なりはどうにか受け入れるが認めてはいない。

我慢して合わせていることにもストレスがある。

それは、他を認めないという意識を育てなしないだろうか。

認めないからいじめることができる。

認めないから暴力を振るうことができる。

認めていないから所有物的認識で囲おうとする。

自分のものなのだから好きにしてよいのだと。

そんな風潮がはびこっている。

社会が個人を、個人が社会を認めない。

先生が生徒を、生徒が先生を認めない。

親だって子供を所有物化していないだろうか?

親の思う、願い子供でいて欲しいと。

望むように育ってほしいと思ってはいないだろうか。

自己中!

ミュージシャンを目指して懸命な活動、努力をしてきた女性を傷つけ人生を台無しにした男の裁判がテレビで報じられた。

ストーカー殺人と同じ構造の事件だと思う。

時計を送りつけてその意味が分かるでしょうって、見ず知らずの人間から物を送られたら、その意味がどうのという以前に気持ちが悪いし不気味だ。

別れるためのけじめを求めての話をしようと・・・そもそも交際していないのに”別れ”って何。

自分勝手に恋人同士だという想像から全てが発想されているのだろうか。

 

交際を申し込むということだって一方的に事を進めていく人間と同じに、相手はどういう気持ちだろうかと考えない。

考えたとしても理解できない。

否、自己中心的な視点しかないから理解しようとしていない。

そんな人間が増えていると感じる。

どうしてだろう。

考えないで覚える、覚えてテスト用紙に応えをかけばいいという偏重教育も原因しているのかもしれない。

とにかく想像力がない。

意にそわないものは認められない。

認められないものは意に沿う形を見つけるまでリセットを繰り返すのか。

ゲームなら、意に沿わない工程をリセットしてやりなおすことが幾度でもできるが、現実はそうではない。

それが他人を傷うける行為であったなら、自分の人生を刑務所からリセットしなければならない。

第一に、傷つけられた人はどうなのか。

自分がされたらどうなのだろう。

ナイフで腹を刺され、抱え込まれて首を刺されたら、それでもいいのか、例えば「気に入らない奴だから」「自分の言うことに従わないから」という理由で。

自分がされたら嫌な事は他人にしないということすら分かっていないのか。

幼稚園児だって分かることだと思うのだが。

能動的人生

日本人は受け身であることが多いのではと感じた。

意見交換や議論がへただという記事は随分と前に新聞で読んだ。

学生交流の場でのこと、諸外国の人たちは自分の意見をどうどうと言うのに日本の学生は聞いているだけの人が多いと。

中には発言するひともいるが、異論を言われると憤慨したようすで黙ってしまうと。

その記事を読んだ時に、自分はどうだろうかと考えた。

異論にたいして憤慨する側のように思ったのである。

どうしてだろうか?

先ず、慣れていないからという理由が思い浮かんだ。

日頃、他人と意見の交換というものをしていないからだと。

仕事に就いている時には多かったが、そこにはテーマがあったわけで。

仕事を離れるとこれといって突き詰めるテーマがない。

仕事以外に本気で、真剣に知りたいと思ったり探究したりというものが少なかった。

生活に密着している地域の自治体のあり方、納めている税金の使われ方、政治の恩恵、住居周辺や友人はどとの人間関係、夫婦の本質。

社会に向かう姿勢や働きがけはと、ただ漫然として漠然として時を過ごしているだけのような人生って受け身、受動的でありすぎないだろうか。

仕事を離れたら抜け殻のような生活が始まったとか、無気力で怠惰な姿に粗大ゴミと評されたりという。

行動することが極端に少なくなり、身体も頭も使わなくなって認知症へとまっすぐらなんてつまらない。

働き通してきてこれから人生を楽しもうとのはずが、ふと気がつくと逆方向へとなっていく。

これなら働いていた方がいいと思っても高齢者の再就職は難しい。

私は思う、難しいとかの問題ではないと。

仕事は経済を得る生活の道具であり手段であって楽しみではないと。

稀に、好きな仕事で飯が食えるという人もいますが、あくまでも稀なこと。

仕事に逃げてしまってはいけないという視点もあってよいと思うのである。

一度しかない人生なのだから、仕事という社会的鎧を脱いだ裸の自分を大切にしよう・・・なのである。