読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

仮想、空想に慣れる

『裸の写真を彼氏に、(SNSの問題点)』

あくまでも素人の意見ですが。

 

彼氏に送信した裸の写真、別れたら拡張されたとテレビが言っていた。

 

最近の若い人たちは面と向かっての人間関係が苦手という人が増えているのでしょうか?

早くからテレビゲームやタブレットスマホを手にすれば今度はSNSで顔の見えない交遊関係。

幼稚園や小学校は疑似社会、小社会であって人間関係を築いていくための、いわばトレーニングの場ではと思っていた私は古いのだろう。

少なくとも小学校の中学年以上では人間関係に本音と建て前が生まれているようだ。

考えるより覚える教育、テストのための詰め込み教育だと言われて久しい。

考える事の中で、相手の立場になってという大事な要素がある。

こう言ったらどうお受け止めるだろうか。

自分はこう思うけど、相手はどう思っているのか。

考え方や感じ方は10人いれば10通り。

想像力を働かせて考えることが不足しているように感じてならない。

思えば65歳になる私の小学生の時は遊び方を考え工夫し、遊び仲間の中にルールを作ったりしたものだ。

今はどうなのだろうと想像すると、お互いの意見や気持のやりとりが少なくなったのでは思えてならない。

子供の玩具といえば、全てが完成されていて、どう扱うか、どう遊ぶかが示されている。

考えないで面白さを味わえる。

言い方を変えれば、メーカーの意図した形に当てはめられていると、或いは受動的だともいえる。

自分ならという視点がないがしろにされている。

結果、自己認識や自立心や自律心が育たない。

もてあましている迷いが表に出れば、その隙をつかれていじめられたりする。

自分を晒せない、晒せばいじめの種が生まれかねない。

そう、いじめに警戒するのです。

そうやって早くから警戒心をもっているのにどうしてSNSでの警戒心は薄いのか。

そう思っていたが、真理は逆かもしれないと思うようになった。

学校ではじかに触れているから“いじめ”という被害にあう可能性が大きい。

だから架空世界に生きようと、これは大袈裟だが架空世界に逃げようとする。

それに慣れると架空な世界が現実味を持ってくる。

どう想像するかで現実の世界では実現不可能な、例えば恋愛や異性交遊など。

想像は妄想をう生み、妄想に支配される。

だから、SNSの通信だけの、生ではない仮想の交流が現実味をもってしまう。

あくまでもそこにある相手の姿が仮想であって、表現される人柄や語りかけてくる言葉の真意はない。

だが、自己の都合のよい想像も助けとなって仮の真実が生まれる。

その段階で納まっていれば問題は起きないのだが。

だが、仮想の恋愛のつけ込んで信頼感を得るというのは生の触れ合いよりも単に簡単とは言わないが、危険性を含んでいるのではないだろうか。

悪い意思をもってどうやって信頼の罠に誘いこもうかと躍起になっている輩がが沢山いるのが現実なのだ。

連中は日々工夫に励んでいる。

女の子の心理を研究してもいる。

いわばプロだとも思っている。

人は信頼関係の中に依存心を生むことがある。

個人的な交信の段階に入っての相手の情報、会ってもいない、顔も知らない、どこに住んでいるのかも分からない、本当は男なのか女なのかも分からない、正体不明な相手なのに、そこにある情報を信じてしまう。

更には恋愛感情まで育んでしまう。

彼氏に嫌われたくないからと、要求に応えて裸の写真を送信し、脅迫の材料にされて不純な異性交際を強要される事は、強制的な性交渉相手にされたりという被害はどれほどあるのだろうか。

裸の写真を人の目に、たとえ信じている人でも、恋人と思っている相手にでも堪らなく恥ずかしいものであろう。

それを要求してくるということ自体が“あなた”を軽んじていることなのだ。

人を軽んじる人間は、思うようにならないと破壊行為へと進んでいく。

ストーカー殺人はその最たではないだろうか。