身勝手な犯行・・

『身勝手な人間が増えているのか』

身勝手でない犯行ってあるのかな?とも思うのですが。

 通り魔的殺人事件といわれるものがあった。

これからもあるだろう。

そういう事件が思いださせるのは「人を殺してみたかった。」という言葉です。

動機があまりのも短絡的といいますか、「えっ、そんな理由で人を!」ということが多すぎます。

もっとも、どんな理由をもってしても人を殺しても良いという理由にはなりません。

それなのに、それなのにという思いが膨らみます。

身勝手の最たるものが殺人です。

人は他人のものを奪ってでも欲しいものを手に入れることがあります。

盗みです。

欲しいのに手に入れる力、経済力がないから奪うということだろうか。

或いは、自分には与えてくれないから奪う。

どちらにしても、得るための努力をしない、したくないと、それでも欲しいという我欲なのか。

そこには奪われた人の気持ちを思う、考えるということがない。

他人の立場にたって物事を考える、気持を考えるということが欠けている。

自分がされた立場だったらどうだろう、どういう気持ちになるだろう。

そういう人に限って案外に、もしも自分が被害者だったら

「ふざけるな!冗談じゃない!絶対に許さない!」

という思いは人一倍、いや誰よりも強いだろう。

どうして?何故?などという思いなど皆無で怒り心頭するだろう。

しかし、物体なら返すとか、金銭で償うということもできるが命は全く次元の違うもの。

 

いつからだろうか、テレビドラマにはサスペンスだの刑事ドラマだのと、殺人事件がとても多い。

それはそれでもよいから、もっと人間像を描いて欲しい。

犯人の気持ちとそれ以上に被害者の気持ちを描いて欲しい。

殺人事件に限らずに罪の深さを描いて欲しい。

 

死にたいけれど死ねない。

自分で自分の命をなくすという行為は怖くて出来ないから、人を殺すという行為の罪に対する罰として死刑にして欲しい、そんな身勝手な言葉もテレビにあった。

それに対しては自分の事なのだから人を巻き込むなと言いたくなる。

そんな動機で刺したり切ったりされたら堪りません。

 

そうした行為をする人にはどんな言葉も通じないのではと思う事があります。

常軌を失しているからだと思うからです。

1方向に意識が集中して他は見えなくなっているから。

裁判に於いて心神喪失責任能力の有無などが問われることがあります。

責任能力がないから無罪という判決も、私には理解しがたい事の一つです。

精神状態がどうであれ、犯した罪は罪ですから有罪ありきでよいと思うからです。

刑の大小に酌量の余地を考慮することはあっても絶対に無罪はあってはならないと思うのです。

 

殺人事件被害者の件数をみてみました。

少ないと思うかどうか。

2013年以降はもっと増えているように思えてならない。

  • だが、自殺者の数の方が圧倒的に多いのです。

年度

合計

1955年 ゴジラアンギラスが出現(『ゴジラの逆襲』)

2119

1964年 東京オリンピック開催

1480

1986~1991年 バブル崩壊とされる期間(6年間の平均)

 843

2012年 最新統計

  383