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ストーカーを止めると自分のアイデンティティが?

天声人語にこんな言葉がありました。

「ストーカーをやめると自分のアイデンティティがなくなる。」

この馬鹿にアイデンティティが何なのか分かっているのか?いや、分かってなどいない。

分かっていれば、ストーカー行為に奔走したりはしないだろう。

己のアイデンティティを本気で問うならば、視野が広がり他者にも心配りが生まれるものだと思うからだ。

自分だけのアイデンティティ、自分さえよければいいという発想が根底にあるのでは。

自分だけしか視野にない?

そんな狭い見識で真実が見えるか。

 

最近、何事につけ人権がないがしろにされていると感じてならない。

私自身の反省を含めてなのだが、人権という事を本気で考えたことのある人はとても少ないのが日本ではと思う。

他国の多くは様々な人種で構成されている。

人種が様々ということは生活信条の根幹をなすことが少なくない宗教も様々ということである。

アメリカは最たるものだが、テロなどのニュースで知るヨーロッパ、自由と博愛を歌っているフランスではイスラム信仰の人が随分といることをニュースで言っていた。

そうした国では考え方や思想の持ち方の違う人たちが周囲に沢山いるので、どう理解してどう受け止め、どう付き合っていくかという事が日常にある。

そうであれば、否が応でも考えざるを得ない。

相手の事を考えていけば、自ずと自分をも見つめ、見つけざるを得ない。

人は鏡であると思うから。

その人の姿を理解しようと思えば「それでは自分はどうだろう?」という問いにぶつかる。

それが無い人間はよほど傲慢だと思う。

自分は絶対だから省みる必要はないとでもいうように。

私は思う、宗教とは信じることであると同時にどう生きるかという思想でもあると。

考え方が生活に反映されるのは当然だから。

 

こういう言葉もあった。

「大切に思う気持ちは変わっていない・・・もう一度プロポーズを。」

{相手への支配欲ゆえに「どん底に落としたい・・・たたきのめしたいですよ。」}

意味が分からない。

付き合ってもいない人にプロポーズとは?

相手への支配欲?

物じゃないのだから一方的な感情でどうこうする、またできるものではない。

それすら分からないといのは、人としてどう育てられ何を学んできたのだろうか。

社会と個人とは一体化している部分と己として別な部分があると思っています。

そのバランスをどうとるかという事は幼少の頃から、時には躾であったり、叱咤であったり、褒められたりであったりしながら身についていく。

そうした時期を失した訳ではないだろうが。

親を知らずに育つ人もいるが、ハンディを乗り越えて素敵な社会人に、家庭人になっている人は沢山います。

経済的にも恵まれて不自由のない環境で育ちながらも社会との適合、適応ができない人も少なくないのだろうと思う昨今だ。

何が悪いのか、躾は親の責任だと思っている。

教育は半分は国の責任だと思っている。

  • 残りの自分の責任は年齢とともに領域を広げてい大人となっては100%自分の責任だという認識をもって育ってきたのは昭和の世代までなのかな